The Shogunate's Challenges and Failures in Aiming for a Nationally Unified Forestry Administration
Updated by 長澤 光太郎 on June 27, 2025, 3:28 PM JST
Kotaro NAGASAWA
(一社)プラチナ構想ネットワーク
1958年東京生まれ。(株)三菱総合研究所でインフラストラクチャー、社会保障等の調査研究に従事。入社から数年間、治山治水のプロジェクトに携わり、当時の多くの河川系有識者から国土を100年、1000年単位で考える姿勢を仕込まれる。現在は三菱総合研究所顧問。学校法人十文字学園法人本部長補佐、東京都市大学非常勤講師を兼ねる。共著書等に「インフラストラクチャー概論」「共領域からの新・戦略」「還暦後の40年」。博士(工学)。
※前編はこちら
江戸の御用調達商人による流通支配で地方の森林資源に打撃 徳川林政史研究所『森林の江戸学』を読む(前編)
前回は地方行政(藩)が地域に適した造林技術を追求し取りまとめ共有したことが江戸時代後半の全国的な森林復活において重要だったことを記した。当時の江戸幕府が無策だったわけでもなさそうだが、地域の気候風土に根ざす農業や林業を全国一律に規格化することはかなりの難事業であるようだ。本書で紹介されている例を二つ紹介する。
幕府のある勘定奉行は、江戸と長崎を行き来する中で、南九州から北部九州一帯に広がったスギの挿し木技術に注目した。長崎ではこれが「家別植付」として奨励され、毎年春と秋に一軒あたり二本ずつの挿し木を行い、根付かないものは植元から何度も植え替えることによって成木を育てていった。勘定奉行はこの手法を全国に普及させることを目論み、配下に方法を学ばせ、全国の幕領で適用するよう布達を出すに至った。
布達には、挿し木の時期、挿し穂の作り方、挿し込みの方法、水の与え方、挿す間隔などが詳細に記されていた。挿し木を行った本数や根付き具合などは幕府への報告義務事項とされた。ところが12年後、幕府はこの挿し木事業に関して「捗々(はかばか)しき義もこれなく」と述べて試みが不調に終わったことを認めたというのである。著者は、適切な育林方法は地域によって千差万別であり全国一律の法令で対処できる性質のものではないと解説している。
もう一つは、日本にドイツ林学を導入しようとした明治初期における官僚の事例である。明治政府は発足当初から一部の官僚を欧州に派遣して近代化のための技術や政策を学ばせた。その中に、ドイツ林学の影響を受けて、全国の官林(政府保有の森林)を直轄化して国家管理を強めるように主張する内務官僚が出てきた。
内務省は保安林機能の維持と良材の産出を官林経営の二大目的として、「国産繁殖」と呼ばれる政策を推進した。その典型的な事例が明治13年(1880年)頃から展開された「樹実採拾(じゅじつさいしゅう)」政策である。これは、ヒノキやサワラなどの良材を全国で造林するため、著名な良材産出地方で採取した樹実を各地の官林・官有林へ移送して播種するというもので、例えば木曽地方などのヒノキの樹実を大量に集めて北海道などでそれを蒔いたのである。
しかしながら全国から「著名の子種」をいくら集めて他の地方で播種しても、結果として多くの場合、気候など地域の実情に合わず失敗に帰した。明治政府はこのような試行錯誤の末、明治19年(1886年)には全国に大林区署・小林区署を設けて、地域に合わせた林野政策の展開に舵を切った。
近年、徳川林政史研究所が行った森林管理局(大林区署等の業務継承組織)所蔵資料調査によれば、複数の管理局が江戸時代の林政関係の古文書等を保存し、明治以降の造林計画策定など参考資料として利用されてきたことが判明したという。つまり江戸時代の地域主導ボトムアップ林政は、明治以降も継承されていたのだ。
『森林の江戸学』は歴史書ではあるが現代日本の森林の状況に触れている。簡潔だが、それ故に大筋がわかりやすい。概要は以下のとおりである。
敗戦直後の日本の森林は、戦時中の乱伐や戦後復興のための乱伐により、極度の荒廃状況に陥っていた。木材需要は昭和20年代を通じて増え続け、林野庁に対して各方面から国有林の積極的な伐採による木材増産を期待する声が集まった。資本不足が著しい当時の日本に、外材を輸入する選択肢はなかった。
こうした世論の圧力を背景として昭和32年(1957年)に策定された「国有林生産力増強計画」では、奥地未開発林の総合的開発促進と人工造林の拡大が謳われた。新設の森林開発公団は積極的な林道開発で奥山への交通路を確保し、生長が遅い広葉樹主体の天然林は生長速度の速い針葉樹の人工林への「林種転換」が進められた。人工林を増やして、計画から40年後(1997年)には森林の生産性2倍にするというのが、この「拡大造林」政策の目標であった。
拡大造林政策は、行政指導や補助金交付などの手法によって、都道府県や民間の地主が保有する私有林へも拡大適用された。高度成長による木材需要増への即応という大義名分に基づき、里山・奥山を問わず天然林は大量に伐採され、スギ・ヒノキ・カラマツなどの針葉樹への転換が図られていった。昭和30年代前半の林業は、このような流れの中で活況を呈したが、それも長くは続かなかった。
昭和39年(1964年)に外国産材の輸入が完全自由化され、価格優位な外材の供給量は昭和44年(1969年)に国産材を上回った。昭和48年(1973年)からは変動相場制導入で円高傾向となり外材の価格優位性がさらに高まった。また同年のオイルショックは国内の木材需要そのものを収縮させた。
国内の林産物は、外材と価格競争するならば伐採して売れば売るほど赤字が出る状況となった。拡大造林で人工林の面積が一気に増えたため、管理コストも高止まりした。昭和30年代に黒字を誇った国有林野事業特別会計は赤字化して、平成10年(1998年)の累積債務は4兆円弱に達し、経営努力のみでは返済不可能な状況となった。
平成11年(1999年)の国有林事業抜本改革は、こうした状況を受けたもので、一般会計からの繰入等によって債務返済のスキームを作る一方、国有林の機能は水土保全と人間との共生をメインに位置づけることとなった。木材生産林については、国有林全体の中での構成比を従来の54%から一気に4%まで引き下げた。つまり1957年以来の木材生産重視政策は、42年後に森林環境重視政策に全面的に転換されたことになる。
駆け足で紹介した『森林の江戸学』は、濃密な読後感を残す本である。それは、ただ単に江戸時代の林業の様子を知るというだけでなく、それをベースに現代をどう考えるかという問題意識が読者に伝わってくるからだ。
概説編の末尾に「現代の私たちの立ち位置は、ちょうど18世紀に入った時のような状況に近似しているかもしれない」という文章がある。私も、全く同感である。
18世紀初頭の日本の森林は、「17世紀の乱伐により8割の山が裸になった」(熊沢蕃山)という状況である。それを横目で見ながら、各地域で利用抑制や植林の試行錯誤が続けられ、地方行政官が著した山林書などによって技術共有が進み、その後100年かけて緑の列島を復活する。江戸林業における課題解決の、まさに始動の時期が「ちょうど18世紀に入った時」なのである。
現代日本の森林は、針葉樹を植え過ぎてしまって始末に困っている。花粉症もひどい。18世紀は伐り過ぎ、21世紀は植え過ぎということで外見上の課題は正反対だが、人間の都合で自然を改変し過ぎて弊害が生じている状況を適正化しようという意味では構造は同じである。
2025年の今、日本の森林の現状を打破しようとして知恵を絞り、試行錯誤している人が多くいることも、18世紀初頭と何ら変わらない。我田引水になるかもしれないがプラチナ森林産業イニシアティブもその一つである。今後100年に向けた変化は今まさに始動しているのだ。(プラチナ構想ネットワーク理事 長澤光太郎)
■関連サイト
徳川の歴史再発見 森林の江戸学(東京堂出版)