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「育成林業」という人類史の偉業を19世紀に成就 コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』を読む(後編)037

The 19th century saw the fulfillment of a great achievement in human history: the "cultivated forestry industry

Updated by 長澤 光太郎 on June 04, 2025, 9:30 PM JST

長澤 光太郎

Kotaro NAGASAWA

(一社)プラチナ構想ネットワーク

1958年東京生まれ。(株)三菱総合研究所でインフラストラクチャー、社会保障等の調査研究に従事。入社から数年間、治山治水のプロジェクトに携わり、当時の多くの河川系有識者から国土を100年、1000年単位で考える姿勢を仕込まれる。現在は三菱総合研究所顧問。学校法人十文字学園法人本部長補佐、東京都市大学非常勤講師を兼ねる。共著書等に「インフラストラクチャー概論」「共領域からの新・戦略」「還暦後の40年」。博士(工学)。

※前編はこちら
森林の過剰伐採で日本が直面した2度の危機を解き明かす コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』を読む(前編)

日本の山の8割が裸になった(熊沢蕃山)という17世紀末の状況に関して、当時の一部知識人は警鐘を鳴らし(例:蕃山のほかに山鹿素行が知られる)、行政(幕府、藩)は対策をとり始めた。幕府が行ったのはまず土地境界と荒廃状況の調査、その調査に基づく管轄権(山林保有者)の明確化、そして規制である。その結果、それまでは必ずしも範囲が明確ではなかった領主や幕府の所有林が「御林」として民有林から仕分けられ、御林の中の保存木は「留木」、利用制限する山は「留山」に指定された。こうした保全策が領主や幕府による森林行政の軸になった。御林の木材資源状況を規則的に幕府に報告させる「御林台帳」がつくられ、伐出計画策定の基礎資料として用いられるようになった。

造林技術の精緻化と普及

しかし以上のような消極的、防御的な森林行政のみでは増大する森林資源需要に対応できるはずもなく、18世紀に入った頃から造林への本格的な取り組みが見られるようになった。

この時期に多く出現したのが農業技術書である。よく知られたものに宮崎安貞『農業全書』(1697年)がある。このようなマニュアル本は全国で無数に発刊された。著者は地方を巡回する農業指導者、村役人、篤農家、下級官吏などであった。その内容は17世紀に各地で試行錯誤された経験に基づき、技術、農業慣行、環境条件、労働や思考の慣習、人間関係、村の組織化パターンなど広範囲をカバーし、かつ極めて具体的なものであった。林業については、植林に使う苗床の作り方、間伐や枝払いの方法などは特に詳しく述べられていた。輪伐などの新しい考え方も記載され普及した。

列島全体への人工造林の拡散と銘柄品の出現

造林知識の普及により立地条件の良い地域を中心に木材生産能力が上向いてきた。もともと需要は豊富にあり、生産地と消費地を結ぶ木材商人が台頭してきた。人工造林は商人や村々だけでなく藩や幕府にも普及した。

人工造林には高いコストがかかるため、生産地では付加価値の高い品種や産品の生産が目指され、その競争がいわゆる銘柄品を生み出した。吉野の杉(樽板材)、近江の柿板、尾鷲の木炭、青梅の小丸太などである。

18世紀はこのように、一定の地域で人工林林業に必要な状況が醸成され、この機会を幕藩と起業家的な林業者がとらえ、持続可能な人工林の造成に成功した時期であった。

生産に適した土地利用制度等の出現

人工林林業の産業化に適した土地利用関連制度もこの時代に模索された。以下のような事例がある。

「山割り」とは入会地などの共同体保有地の利用権を各戸に分割し維持責任を明確化する施策である。「年季山」は材木商人への林分の先売りである。「部分林」とは領主が労働力を提供した農民らに御林の一部を利用許可するなど、山林の収穫を分け合う関係者間の取り決めのことをいう。つまり17世紀の幕藩による「留木」「留林」などの閉鎖的かつ硬直的な制度から、より柔軟な制度への転換が進み、それが人工林林業を成長させるための資本、労働、土地の効率的利用を促進したのである。

18世紀末には列島のどこでも人工林が見られるようになり、さらに19世紀になると植林地の面積が急速に増加する。幕末の1868年には、九州から東北に至るまで広い面積のスギ・ヒノキの人工林が造成されていた。

技術的発展、市場の成熟、柔軟で合理的な制度の普及により、19世紀の日本は人工林林業の時代に突入した。タットマンは「ある種の革命が成就したのだ」と表現している。

ボトムアップによる江戸時代の森林復活とその世界史的意義

本書を通読することにより、江戸時代260年は日本の森林にとって危機と回復の時代であったことがわかる。19世紀には人工林林業が普及し、山林は一定の回復を示し、材木の銘柄品すら生まれていた。千葉徳爾『はげ山の研究』は、こうした大きな流れから取り残された地域を扱った著述だったのだ。

この『日本人はどのように森をつくってきたのか』(原題:The Green Archipelago – Forestry in Preindustrial Japan)の発刊は、世界の森林関係者にとって衝撃だったようである。持続的林業を確立したのは近世のドイツというのが世界的な定説であった。そんな中で、1989年に発行された本書が、同時代の日本にも(むしろドイツよりも早く)優れた森林資源管理があったことを明らかにしたからである。

『木材と文明』(築地書館、2013年)の著者であるドイツ人、ヨアヒム・ラートカウは、タットマンの著書を賞賛し、日独を比較して次のように述べている。「ドイツの林業史しか知らない者は学問的な教育を受けた国の森林官僚だけが持続的林業を担保するのだという確信を抱く」「しかし日本では森の造成は森の周辺に住む農民が行なっていたし、それが20世紀中葉まで続いたのだ」つまり、ドイツはエリート主導、日本は現場主導という対比である。

確かに17世紀に起きた全国的な森林破壊に対して、当時の有識者が警鐘を鳴らし、行政機関が禁伐措置をとったのは確かだが、それは森林破壊を防ぐ防御的なものであった。その後の全国的な造林の試行錯誤、造林書の普及等による技術情報の共有、そして18世紀の人工林林業の発展につながる生産的な展開の中で、主役を務めたのは多くの無名の実務者たちである。地域ごとの銘柄品の創出という事実からも、地域主導、地域間競争の存在が感じられる。

本書の原題は直訳すれば「緑の列島」である。邦題が「日本人はどのように森をつくってきたのか」となった経緯を私は知らない。しかし一読後、素直にこの疑問形のタイトルに答えるとすれば、「全国の多くの人々による、自主的な創意工夫で」となるだろう。

「育成林業」という人類史の偉業を現出させたのはドイツと日本である。そして突出したリーダーも先導集団もなく、いわば草の根の力(ボトムアップ)でそれを成し遂げた日本の足跡は唯一無二のものだ。

そう考えた時、ここには何か世界史的な意義がある、そう感じるのは私だけではないだろう。(プラチナ構想ネットワーク理事 長澤光太郎)

■著者について
コンラッド・タットマン(1934年-)は米国の歴史家であり専門は日本近世史。政治、経済、社会、環境など多角的な視点からの歴史分析に特徴。とりわけ環境史に注力。エール大学に長く勤め現在は同大学の名誉教授。著作に『ペリー以前の日本(Japan Before Perry: A Short History)』(1981年)、『徳川家康(Tokugawa Ieyasu: Shogun)』(1983年)、『近代初期日本の木材産業(The Lumber Industry in Early Modern Japan)』(1995年)、『日本史(A History of Japan)』(2000年)、『日本人はどのように自然と関わってきたのか〜日本列島誕生から現代まで〜(JAPAN An Environmental History)』(黒沢令子訳、築地書館2018年)など。

■関連サイト
日本人はどのように森をつくってきたのか(築地書館)

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