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明治神宮の森に感じた「和魂洋才」 村尾行一『森林業―ドイツの森と日本の林業』を読む(後編)132

"Japanese spirit, Western learning" felt in the forest of Meiji Shrine

Updated by 長澤 光太郎 on September 12, 2025, 9:12 AM JST

長澤 光太郎

Kotaro NAGASAWA

(一社)プラチナ構想ネットワーク

1958年東京生まれ。(株)三菱総合研究所でインフラストラクチャー、社会保障等の調査研究に従事。入社から数年間、治山治水のプロジェクトに携わり、当時の多くの河川系有識者から国土を100年、1000年単位で考える姿勢を仕込まれる。現在は三菱総合研究所顧問。学校法人十文字学園監事、東京都市大学非常勤講師を兼ねる。共著書等に「インフラストラクチャー概論」「共領域からの新・戦略」「還暦後の40年」。博士(工学)。

※前回はこちら
ドイツの地域性が影響し3つの森林思想が形成 村尾行一『森林業―ドイツの森と日本の林業』を読む(中編)

明治政府が学んだのはターラント林学

明治政府はザクセン(ターラント)に多くの留学生を送り込み、結果としてターラント林学を国有林運営の基本にしたと言われる。筒井廸夫『日本林政史研究序説』には、日本の国有林は明治政府と共に生まれたという目から鱗の指摘と共に、明治政府は国有林の管理方針をドイツ林学に求め、「法正林(≒一定量の収穫を連年もたらす大規模一斉単純林の形態)」というモデルを理論的拠り所にしたと記されている。法正林思想の浸透には時間を要したが「一旦根を下した後は(中略)かたくななまでの強固さを持って国有林野の経営を律していった」とある。

法正林への評価

村尾氏は法正林の考え方には手厳しい評価を与えている。林齢毎に等面積で配置するとか、伐採木の搬出が隣地に影響を及ぼさないとか、各林分の成長量がほぼ等しいなど、法正林モデルが想定する内容があまりにも現実離れしているというのである。また伐期齢(何年生の樹木を伐採するか)の決定にも諸説がある。「伐期問題で見たように、ターラント林学は、現実から得られたものではなく、思弁が措定した方式とそれに服務する数式・数値・表とによって現実の林業を律しようとする」と彼は書いている。

そしてその批判の矛先は当然、森林行政や林学の世界に向けられ、たとえばターラント留学経験を有する東京帝国大学農科大学教授の本多静六が著書『森林經理學』(1909年)の中で法正林を「一ノ理想的模範に過ギザルモ」と認めつつ「實際ノ施業上ニ於テモ一ノ模範トナルベキ完全ナル林形ヲ定ムルノ必要アリ」と強弁していると難じる。

本多静六とドイツ林業

本多静六教授は有名な「アカマツ亡国論」を唱えた人でもある。アカマツ亡国論とは、本多が1900年に発表した論文で、乱伐が進むとアカマツしか生えなくなる(だから乱伐をやめなさい)と指摘したのに、逆にアカマツが土地を荒らすという誤解が広まってしまったという話である。そして元の論文は「林学者による生態学的研究が林業に応用された最初の事例」(渡邊定元『森林生態学と林業・林学との関わりの歴史』)と評価されている。つまり、事態はそう単純ではないのだ。

村尾氏も、あとがきで「東大林学第二講座(造林学)初代教授本多静六をターラント組に入れたことについては日本林学者たちからは異論が出よう」と書いている。「確かに本多の滞在期間はターラントよりもミュンヘンが長い」「彼の転学先は(ミュンヘン大学経済学部)林学科ではなくて、経済学科であった。そして師事したのは社会政策学会左派の中心人物で講壇社会主義の代表者であるルヨ・ブレンターノである」「さりとて本多は帰国後の学問と実践においてブレンターノ流左派社会政策学の痕跡を残していない。不思議な人物である」とする。

なお本多の留学期間におけるミュンヘン大学では林学科は経済学部にあり、ガイアーの後継者が造林学を講義していたので、本多がそれを知らないはずはないと示唆している。

明治神宮の森からドイツ林学導入を考える

筆者には、この問題をさらに専門的に分析・批評をすることはできないが、一つのエピソードからある想像が膨らんだ。それは福嶋司『いつまでも残しておきたい日本の森』の中の明治神宮の森に関する記述である。以下に抜粋する。

「明治神宮は、明治天皇の崩御に伴い、大正時代に造営された神社である」「そこでは、神社の造営場所、神社のあるべき森の姿が討議された」「委員の一人であった大隈重信は、荘厳さを醸し出すために神社の森はスギ林とすることを主張した」「これに対して、時の東京帝国大学の教授であった本多静六は、スギは煙害に弱いことを述べて反対した」「そして、彼はこの場所の気候や土地の条件にあったシイやカシを中心とする常緑広葉樹林を造成することを主張した。結果的には、生態学的な裏付けをもった本多の案が受け入れられた」

明治神宮の森(筆者撮影)

明治神宮の森には、建設時点から50年後、100年後、150年後の変化を想定した三段階の予想林相図が作成されている。モデルは仁徳天皇陵で、当初は人工林だが時間をかけて自然に近い、安定した森林ができるのだという考え方である。これはプロイセンの恒続林思想と響きあわないだろうか。また、都心の憩いの森でもありミュンヘン・チューリヒ同盟の森林多機能論と通底するのではないか。

明治日本の状況を考えれば、問題はあろうとも製材のための大規模な森林資源経営は必須である。だから大規模単純林もやらなければならない。一方で、生態学的な考え方に基づく多機能型の森林も重要である。どちらか一方というわけではないのだ。

村尾氏の著書によれば、ドイツでは学派がそれぞれの思想を主張し優劣を競うところがあるようだ。一方でこれは筆者の想像に過ぎないが、本多静六などの我が国近代林学の先達の中には、ドイツに範を求めつつ、そこから思想ではなくて、技法を学び、それを日本の状況の中で生かそうとした人たちがいるように見えるのである。

和魂洋才というが、彼らの「和魂」の有り様は、歴史回帰的でもあり(仁徳天皇陵がモデルの恒続林)、工業社会指向的でもあり(法正林思想の国有林経営)、いかにも明治を感じさせる。遥かに多くの技術や技法を手にした令和の私たちは、歴史を大切にし、産業振興を目指すことに加えて、環境や地球を強く意識しているところが彼らとの違いになる。(プラチナ構想ネットワーク理事 長澤光太郎)

■著者について
村尾行一(1934年〜2020年):大連市生まれ。東京大学農学部卒業。国有林・林業研究所研究員、ミュンヘン大学林学部客員講師などを経て愛媛大学教授。

参考文献
カール・ハーゼル『森が語るドイツの歴史』(山縣光晶訳、築地書館1996年)
片山茂樹『ドイツ林学者傳』(林業経済研究所1968年)
筒井迪夫『日本林政史研究序説』(東京大学出版会1978年)
福嶋司『いつまでも残しておきたい日本の森』(リヨン社2005年)

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