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「割りやすい」スギが日本を築いた 遠山富太郎『杉のきた道-日本人の暮しを支えて』を読む(前編)170

Japan was built on "easy-to-split" cedar

Updated by 長澤 光太郎 on November 06, 2025, 10:12 PM JST

長澤 光太郎

Kotaro NAGASAWA

(一社)プラチナ構想ネットワーク

1958年東京生まれ。(株)三菱総合研究所でインフラストラクチャー、社会保障等の調査研究に従事。入社から数年間、治山治水のプロジェクトに携わり、当時の多くの河川系有識者から国土を100年、1000年単位で考える姿勢を仕込まれる。現在は三菱総合研究所顧問。学校法人十文字学園監事、東京都市大学非常勤講師を兼ねる。共著書等に「インフラストラクチャー概論」「共領域からの新・戦略」「還暦後の40年」。博士(工学)。

「森林循環経済」の主役は、なんと言ってもスギである。日本の人工林面積はおよそ1,000万ha、スギはその44%を占めていて、最も多い。ヒノキは25%、マツ類はいろいろ足し合わせて26%だそうだ。広葉樹は3%に過ぎない。前回ご紹介した『広葉樹の国フランス』の中には、日本は明治以降、針葉樹への依存を強めたが、それは日本在来種であるスギが産業用材として有能すぎたからだという記述があった。へえ〜と思った。

しかしながら、正直に書くが、私自身はスギについてほとんど何も知らない。これでは誠に申し訳ないという気持ちもあり、スギに関する良書を探していて出会ったのが遠山富太郎『杉のきた道』(中公新書1976年)である。50年も前の本であり、内容は古びているかもしれない。しかし、この本を読んだことで、スギについて実に多くのことを知った。コンパクトな新書だが、驚くべき記述に溢れている。以下に、その一部をご紹介したい。

スギは巨大である

本書は、著者が富山県魚津市で展示されている古代スギの根株を見た話で始まる。衝撃的である。「ちょっとした体育館ぐらいの建物に水槽というよりプールともいうべきものがあり、その中に怪物のような一個のスギの根株が沈めてあった。話では、昭和五年魚津港の改修工事の時、海面下から多くのスギの根株が生息地と思われる場所で発見され、直径四メートルをこすものが少なくなかったとのことであった。」

知らなかったのは私だけかもしれないが、もしご興味を持った方がおられたら、「魚津埋没林博物館」で検索されたい。間近で見たら卒倒しそうな巨大スギの根株の画像が見られる。魚津周辺には巨大スギが多いらしく、他に「洞杉」と呼ばれる、これまた怪物級の巨大スギが観光スポットになっている。

登呂遺跡の薄板は厚み1cm

この巨大スギの描写から、話は登呂遺跡に飛ぶ。登呂遺跡は、よく知られているように弥生時代後期、今からおよそ2000年前のものである。2万坪の水田があり、畦道には矢板が打ち込まれている。それはスギの薄板で、厚みは2cmほど。枚数はおそらく数万枚。

登呂遺跡には高床式の倉庫がある。壁材は厚さ1cmほどのスギ板で、それより薄いものも出土している。鉄製の工具が既に使用されていたとして、これほどの薄板を当時の人々はどのようにして量産したのだろうか。

丸太で建築をしなかった日本人

ユーラシアには丸太小屋がある。現代風に言えばログハウス。ここで用いられる、材木を井桁状に積み上げる建築技術は、大陸から日本に伝わってきている。セイロウ組み(井楼組み/井籠組み)という日本語の呼び名もある。しかし、日本は木の文化といわれながら、丸太小屋の歴史はない。なぜだろうか。

例えば正倉院の校倉造りはスギで、構造としてはセイロウ組みである。しかし部材は丸太ではなく、世界に類を見ない独特の面取三角形の断面を持つ。これに関して、湿度調節効果や水切りをよくする効果が言われているが、著者はただ単に「日本のスギは大口径なので丸太組みに不適だった」と説明する。ちなみに世界の丸太小屋は、中小径木が豊富な地域に分布しているのだそうだ。

自説を補強するために、著者は正倉院の校木(部材)断面を分析する。その結果、これらは大径木の割材であることが明白で、元となる木の径は1m前後であると記している。確かに、直径1mの丸太でログハウスはできないだろう。

極薄の「屋根板」

日本の家屋の屋根は、古くは草葺き・茅葺きだったが奈良時代あたりから「クレ板葺き」と呼ばれる屋根板が普及した。当時のクレ板は厚み1.5cmほどだったという。その後、「コケラ」と呼ばれる、さらに薄い屋根用の板が開発された。厚みはなんと1cm以下。「クレ」は「コケラ」を生み出す中間材に変わった。コケラは江戸時代には屋根材の圧倒的な主流となる。名声を博していたという天竜のコケラの厚みは、なんと1.7mmとされる。その材料は、やはりスギである。スギのコケラは、縦に年輪が走っていて、これが溝となり、排水が良好なのだそうだ。

こけら葺き(photoAC)

革新的な液体容器:桶と樽

鎌倉時代あたりから、スギを使った木製の桶が現れ、日本人は容易に液体を貯蔵・運搬できるようになった。タガに竹を用いることで量産が促進された。大型の桶や樽は、醤油、味噌、酒、酢などの液体商品の流通を大いに支えた。また肥桶も普及し、「日本人の排泄物のほとんどがスギの担桶で集められ、スギの大桶に蓄えられ、再びスギの担桶で日本中の農地に施肥された。それが三百年続いた。」私はかろうじて覚えている。その光景は、昭和30年代まで見ることができたはずである。

和船の活躍

和船の外観は、蓋のない箱である。日本の河川は急流で、流量の変化が大きいため、底が扁平で浅い舟でないと役に立たない。古代では丸木舟が主であったが、やがて厚板の強さとしなやかさに依存して、スギの板をつなぎ合わせるだけで舟が作られ続けてきた。厚板は、大口径のスギから容易に切り出された。前述の通り醤油、味噌、酒、酢などはスギの樽に詰められ、スギで作った和船で運ばれたのである。

世界と比較すると、例えばヨーロッパや中国では巨材が得られない。このため中小径材で造船せざるを得ず、構造強化の必要に迫られて竜骨、縦通材、肋材などで骨組みを作り、これに板材を貼って作る近代的造船技術が生まれた。日本では、大径材から容易に和船が作れたので、こうした合理的な技術が生まれなかったのではないかと著者は訝しんでいる。

スギで板を作る技術が進歩

日本のスギは歴史的に大径材である。これを著者はしばしば強調する。そして、それゆえに、どのようにしてそれを「板」にするかが技術として問われ、板を作る技術の進歩が日本人の暮らしを支えてきたのだと。

薄材を作り出す基本的な技法は「割る」ことにあると著者はいう(もちろん、割った後に鉋をかけるなどの後工程は時代が降るほど精密化する)。弥生時代の矢板から近世のコケラまで、日本では木材(多くはスギ)が「割って」加工されてきたのだ。幸いにしてスギは、とても「割りやすい」樹種であった。登呂遺跡の高床倉庫で用いられた厚さ1cmほどのスギの板材は、木の年輪に沿って剥ぎ取る「板目どり」と呼ばれる方法で作られたものだ。それから2000年、スギ材を割り続けて屋根板を、桶を、樽を、舟を作って日本人は暮らしてきたのである。=続く(プラチナ構想ネットワーク理事 長澤光太郎)

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